斎藤百合子教授 Aesthetics of the Familiar: Everyday Life and World-Making の出版をお祝いする特別記念講演会


特別ゲスト:斎藤百合子(ロードアイランド・デザイン学院)哲学・美学教授

(同志社大学人文科学研究所第16研究2018年1月研究例会)

主催 同志社大学人文科学研究所 第16研究、共催 エコ・エステティック&サイエンス国際研究センター

日時:2018年1月14日(日)13:00~18:00、会場:同志社大学文学部徳照館一階会議室

 

1、特別記念講演会開催の主旨

現在の米国を代表する著名な美学者である斎藤百合子教授をお招きし、そして同教授の代表的学説である「日常美学」の第二弾『身近なものの美学:日々の暮らしと世界作り』2017年の出版をお祝いする記念講演を開催、これを期に日本の美学研究者らとの交流を深める。

 

2、斎藤教授をお迎えするにあたって

斎藤教授は、「日常美学」の分野では欧米のみならず中国においても教授の研究の第一弾となる前著『日常美学』(Everyday Aesthetics 2007)の出版後、この学説の必須の出典源となるなど、世界中にその名と学識があまねく知れわたっています。本記念講演の主催者である私が、教授の名前と業績を知りましたのは、ちょうど2012年に開催された中国長春での国際シンポジウムの場でした―2012年9月にこの国際美学シンポジウムは、東北師範大学を主催校とし「新世紀生活美学転向:東西対話/国際研討会(International conference on “Aesthetics Towards Everyday life: East and West”)と題され開催されました。この会議では「日常の美学」が中心的討議テーマとなっており、欧米からも多数この「日常美学」のテーマを発表する研究者がいましたから、彼らが自らの説を講じるかと思いきや自説に代え、こぞって斎藤教授の名前を挙げ、その「日常美学」説を引用することで発表としていました。このような光景を目撃して、私はこれならこの会場に斎藤教授をお呼びして問題の在処を確かめる方がはるかに生産的なのにと思ったことを記憶しています。とにかくそのとき参加者たちから間接的に聞かされた斎藤教授の名声と秀でた学識への高い評価は、私にとって衝撃的でありました。斎藤なにがしという日本名の学者が世界中の注目を集めて現に活躍しているのです。我のみそれを知らぬでは、我は井の中の蛙と同じなのか、と深く恥じたのです。五年越しの想いが現実のものとなったとも言える今日このようにして日本の研究者とともに新たに「日常美学」の御著書を世に問われた斎藤教授をこの場に迎えられたことは、私たちにとって無上の喜び以外のなにものでもありません。夢ではないかとさえ思う次第です(以下、後置①に続く)。

 

3、日頃から斎藤美学に興味を持っている日本の美学研究者達(青木孝夫、岩﨑陽子、外山悠、岡林洋)が、この日、美学の贈りものを携え、先生の記念講演に先立ち研究発表を行い、先生の御著書の出版をお祝いします。

①13:00~13:15 岡林 洋 同志社大学文学部教授

オープニング・セレモニー:本日の斎藤百合子教授の新著『身近なものの美学:日々の生活と世界作り(Aesthetics of the Familiar: Everyday Life and World-Making)』(2017年)の出版をお祝いする特別記念講演会の趣旨説明/斎藤百合子教授をお迎えしてのご挨拶/日本側の研究発表者の紹介 

 

②13:20~14:00 岩﨑陽子 京都嵯峨芸術大学准教授

ニコラ・ブリオー『関係性の美学』

14:00~14:10 質疑応答

 

③14:10~14:40 外山 悠 同志社大学大学院文学研究科美学芸術学専攻博士課程(後期)

「斎藤百合子「日常美学」と「をかし」の美学」

14:40~14:50 質疑応答

 

④15:00~15:40 青木孝夫 広島大学教授

「花の美しさー夜桜を焦点としてー」

15:40~15:50 質疑応答

 

特別記念講演

16:00~17:00 斎藤百合子 ロードアイランド・デザイン学院教授

「身近なものの美学が世界を作る」

17:10~18:00 斎藤先生の講演への質疑応答 

1、17:10~17:25 村上真樹(同志社大学嘱託講師)コメンテイター:

「ネガティヴ・エステティックス」の持ち主、ベンヤミン

2、17:25~18:00 岡林から参加者への質疑応答依頼:

斎藤先生は「ネガティヴ・エステティックス」を今後考えて行かなければならないと外山さんへのメールに書いておられたけれど、村上氏がいうような、かつてベンヤミンが「ネガティヴ・エステティックス」の持ち主と揶揄されたことが気にかかります。我々にとって斎藤先生の「日常美学」を補完するそれは、揶揄された言い方ではなく、エステティックスの名称の限界を打ち破ろうというものではないか(以下、後置②に続く)。

 

①長春での会議においては中国(や台湾)の美学教授たちが斎藤美学はデザインの文脈から講じられているとか、日常即芸道であるとされてきた日本の伝統的芸術精神を継承するものであるとかが話題にされていたが、当時の私は、美学といえばお決まりの欧州の、ドイツでいえばW.ヴェルシュの越境美学、今日ではG.ベーメの雰囲気の美学、キワモノならP.スローターダイクのポスト・ヒューマンの芸術評論、フランスならN.ブリオーの『関係性の美学』、今日ではソルボンヌのジャケ教授の『匂いの哲学』などの学説の輪が思い浮ぶ程度で、この会議で聞いた「日常美学」や斎藤氏のことはどこか他人事のようでした。それから約5年の歳月が過ぎ、現在では、私の周辺で斎藤美学評価に大変動が起こっており、例えば大学院の博士課程で斎藤教授の学説を博論テーマにする院生(今回の記念講演企画の幹事役を務めている外山悠さん)まで現れており、私も同氏のテクストに実際に触れている。「日常美学」第一弾での『日々の暮らしでのエステティックス』から今回その出版のお祝いを行なっている第二弾の『ザ・ファミリア(身近なもの)のエステティックス(Aesthetics of the Familiar: Everyday Life and World-Making 2017)』までの斎藤氏による論の展開を院生とともに考えることもしばしばである。その過程で、院生からテクストを読み込む量は半端ではなく、ときに発見をしてくれることもあり、なかでも次の読解は貴重な例としてみなさんに紹介できるものです(私の解説もその後に付けてみます)。

外山さん「斎藤先生の二つの著作を比べてみて分かったことがあります。Everyday Aestheticsの段階では、日々暮らしている人々は、日常生活の中にありふれた情景や人工物に対して「道徳的美的判断」を行なうとされますが、この段階で彼らはあくまで目撃者の立場にとどまります。World-Makingをコンセプトにする第二弾(Aesthetics of the Familiar: Everyday Life and World-Making)では、日々暮らしている人々自身が世界の作り手になっているようです」。

私の解説「第一弾では、例えば「汚れたままのリビングルーム」が、本来そのような対象はカントの美的判断の領域の外にあり、ここに判断対象の根本的領域変更がみてとれるのですが、「日常美学」の判断対象となります。そしてリビングルームを非美的状態のままに放置する人に対して斎藤氏は「道徳心が欠けている」との判断を下すのです。まずリビングルームは日々の暮らしで家族全員が快適且つ清潔に利用し生活すべき人工的構築物であって道徳的美的判断の対象ということになります(それに対してカントの美的判断の対象は言うまでもなく自然の事物の表象、形式、つまり見え方であって、それが判断者の主観(の快不快の感情)にかかわります)。斎藤氏にあっては、あくまで家族という自分以外の存在に快適さを感じさせることが肝要です。清潔且つきれいなはずの人工物(の内部空間)を掃除を怠り非美的状態のままに放置することは、まさに家族という一種の他者の気持ちを尊重する道徳心を欠いた例になってしまいます。リビングルームという家庭内の公共性を保つ(掃除を家族のためにし続ける)ことを基本とする「日常美学」での斎藤氏のダブル判断では、道徳的判断が他者の自由と自立性また快適さを尊重させる機能を果たします。カントでは美的判断は斎藤氏の場合のように他者の権利を尊重する道徳心とは関係しませんが、対象の表象と判断者自身の主観(の快不快の感情)とのかかわりで、道徳的満足との関係を断ち切った上で、そこで起きる美的満足状態は他者がその美的判断を行っても同一の満足となることが確認できることを、あの構想力と悟性の自由な戯れというカント独特の認識論的説明を持ち込み見事に主観的普遍(伝達可能)性の証明をおこない、カントはこの美的満足が生命感情を促進するとさえ述べています。では斎藤氏は、例えばリビングルームという家庭の中の人工的構築物を主婦や主夫が清潔に保ち、家族の快適さを尊重する場合、ポジティヴな判断が下される道徳的美的判断では、カントの場合は生命感情の促進でしたが、何が起こると考えられるのでしょうか。おそらくそれは公共性を尊重する精神ではないかと思われる。リビングルームを汚いままにしてネガティブなダブル判断が下されるにしても、逆にそれをきれいに保ちポジティヴなダブル判断が下されるにしても、斎藤氏はどちらの場合でも美的(判断)の方が原因に位置し、それと連続してつまり因果律的関係をもって、道徳的判断が他者の自立や公共性の尊重を実現するとの考えを持っているように思える。したがって斎藤氏の「日常美学」でのダブルキャラクター判断の構造を、今後その発想は全く根本的に異なる芸術のダブルキャラクターからの帰結であるとしてもアドルノの場合の「美的」と「社会的」の構造と比べてみる必要があるかもしれない。

その後、私は、第二弾を書き終えた斎藤氏とメールをやり取りしました。その中に「もしかすると」と思える一行がありました。あの外山さんが私に言ってくれた、日常美学の主役はやはり目撃者の立場であったが、ワールド・メイキングの立場では日々の生活者が世界を作る主役に代わっていると奇妙に符合する斎藤氏ご自身がそれとなく川俣正のアートコンセプトをメールに書かれたのです。忘れられないひとことです。私は2017年10月ソルボンヌ講演を間近に控え演題のことで頭がいっぱいになっていて、先生との共通の話題が探せずついこう書きました。「私のソルボンヌ講演はパリと日本に関連させるものにしたいと感じて、エコール・デ・ボザールにいる川俣正が2000年のパリ近郊エヴリューでやった《Sur la voie(道往き)》プロジェクトを、近松門左衛門の『心中天の網島』1720年の「名残の橋尽くし」の文脈で解釈しようと思っています。これが私の「文化交換」の美学的方法なのですが、悪戦苦闘中です。その他にも2017年から川俣の《足場の塔》プロジェクトの連載をこつこつ始めています」などとおそらく斎藤先生が関心を持たれないであろう話題を書き散らかして送信したのですが、先生からは事も無げに「川俣正はワーク・イン・プログレスですからね」との返信が直ぐに届いたので正直驚きました。ひょっとすると斎藤先生は、この川俣の「只今展示替えに付、現場には作品を展示していません」を意味するプロジェクトコンセプトのことを認識しておられるのではないか。さらにこうも思いました。この現場ではしばしば主役の座を地域の生活者、外部からのボランティア(外国人を含め)が担うのですが、このことまですでにご存知だったのではないか。なにもそこまで詳しく云々かんぬん言わなくてもよいのですが、斎藤氏の「ワールド・メイキング・プロジェクト」の内容は、こういう言い換えなら具体的によく分かるのではないかと思います。それは美学者によってなされるワーク・イン・プログレスであり、斎藤氏の第二弾「身近なものの美学で世界を作る」は、第一弾では目撃者の地位に甘んじてきた日々の暮らしの人々がそこから脱して、世界作りの主人公になっていくことである、と。

 

②斎藤先生がイメージしていらっしゃるそれはベンヤミンの揶揄された際のそれとよく似たものなのかそれとも違うものなのか、全く違うものではなく、むしろかなり似ている可能性もある。

・ベンヤミンが「ネガティヴ・エステティックス」の持ち主と揶揄された外部状況と斎藤先生が逆にそれに思いをはせておられるような外部状況とを比べてみる必要もある。

・あるアーティストが「アート・レス」(川俣正『アートレス マイノリティーとしての現代美術』)というが、これは正しくはファインアート・レスなアートと言い表すべき。だとすると「ネガティヴ・エステティックも、正しくは、ファインエステティック・レスなエステティックスと言い表す方が適切ではないかとも思う。

・言い方、呼び方を様々に変えても無益であり、斎藤先生には、そのようなものに思いをはせておられる先生の問題意識をお尋ねしたい。